2012/11/15

問題の新聞記事・判決文を踏まえた日垣隆氏による記述へのさらなる疑問

以前の記事『問題の新聞記事・判決文と日垣隆氏による記述の一致』では発見された新聞記事判決文判決後の新聞記事が日垣氏の弟についてのものである可能性について述べた。これらが日垣氏の弟についてのものである場合、さらに以下の点が問題になる。

  1. 被害者の両親は殺人を主張していない
    『少年リンチ殺人』(1999年)には「私の弟は、十三歳でその命を閉じた。両親は、教師たちの過失による「事故」だと、今でも信じようとしているのだが、うすうす気がついているのではないか、と私は感じている。」と書かれているが、これは日垣氏の両親さえも「被害者は同級生により殺された」とは主張していない、ということである。
    これは日垣氏の記述のみを見ても導き出されることであるが、判決文を見ると確かに原告(被害者の両親)は「同級生による殺害」を主張していない。
    本件について事故ではなく殺人(他殺・犯罪)であると主張している者は日垣隆氏以外に見つかっていない。一方、資料に残されている限りすべての当事者(被害者の両親、学校関係者など)はこの件を事故として扱っている。
  2. 加害者は存在したのか、刑法41条・少年法は適用されたのか
    『少年リンチ殺人』(1999年)には「相手は、刑法(第四十一条 十四歳に満たない者の行為は、罰しない)および少年法に基づき、取り調べさえ受けなかった。最初から「なかったこと」にされた。」という記述があるが、刑法41条・少年法を根拠にした場合、その行為は「なかったこと」にはならない(参考:日垣隆は「弟の死」の真相を明らかにすべきだ)。これは日垣氏が法律を理解していないという指摘であるが、判決文を見ても被害者が除雪溝に転落したことは「不慮の事故」とされている。他者の関与についても「浮わついた気持から級友とふざけ合って遊んでいたため本件除雪溝に転落したことを認めうる証拠もない。」と書かれており、様々な可能性の一つとして挙げられているのみである。もし日垣氏の主張するように「弟は同級生により殺害されたが、加害者は刑法41条・少年法を根拠に罰を免れた」のであれば、判決文はこのような記述にはならず、転落したことも「不慮の事故」(判決文にそう書かれている)として扱われることはないはずである。
  3. 日垣氏の語るエピソードは本当にあったことなのか
    『サイエンス・サイトーク いのちを守る安全学』(2001年)では、「弟が殺されて結局“学校事故”っていうことで処理されたのですけど、葬式などがあって十日間くらいしてから、ようやく僕は学校に行くんですね。」という導入部から、その日の授業中に教師から酷い扱いを受けたという話に続く。しかし、新聞記事及び判決文によると被害者が死亡したのは7月23日であり、その十日後となれば既に8月になっている。この頃は中学校は既に夏休みではないのか(参考:夏休みの期間(日本国内)(Wikipedia) )。本当に授業はあったのか。そして、これらの不可解な記述から、このエピソードは本当にあったことなのか疑問である。
  4. 日垣氏の言う「事件に関する全資料」から何がわかるのか
    『少年リンチ殺人』(1999年)で「私はいつか必ず、弟の事件に関する裁判記録を熟読しようと思ってきた。最初は父が、その作業にあたろうとしていたのだが、精神的にまいってしまうほうが先だった。」「この本を書くために、とりわけ第五章の末尾を書くために、私は今こそ弟の事件に関する全資料をひもとこう、と決意したのだが果たせなかった。」と書かれている。この「事件に関する全資料」とは「裁判記録」のことであろうと考えられるが、問題の裁判では殺意などについては争点になっていない。「全資料」とはどのようなもので、それを読むことで何を知ろうとしていたのか疑問である。

以上のように日垣氏の記述には齟齬・疑問点・問題点があり、弟が同級生により殺害されたという主張は疑わしい。

日垣隆氏による「弟」についての改訂

日垣隆氏は学生時代に弟を亡くしている。このことは、日垣氏が自ら繰り返し自著で触れている。1999年『少年リンチ殺人』の出版以降、日垣氏は「弟は同級生に殺され、少年法により加害行為は”なかったこと”にされた」と主張している。この経験に基づいて、日垣氏は少年法について発言したり、犯罪被害者として意見を述べたりしてきている。

しかし、日垣氏の著書では弟の死についての記述が初出時(雑誌掲載時)から改訂されていたり、文庫化の際に改訂されていたりする。この記事では、それらの改訂のうち重要なものを紹介する。

改訂A:「弟の事故死」→「弟の死」

1997年に出版された単行本『情報の技術』を2001年に『情報系 これがニュースだ』として改題・文庫化する際、次のように改訂されている。

  1. 「弟の事故死」→「弟の死」
  2. 「弟の学校事故」→「事件」

以下に比較のため前後の記述も含めて並べる。

情報の技術(朝日新聞社, 1997/10)
225~226ページ(第1刷)第14章 六法よりも奇なり より

 私にとって、二十代で経験した三度の失業など、十代で耐えねばならなかった弟の事故死や、その弟の学校事故を巡って裁判を両親が起こしたという身近な出来事もあってか、法曹界をめざすようになった兄が二十歳で精神分裂病を発症しまだ治癒せぬこと、などに比べれば全然どうということはなかった。

情報系 これがニュースだ(文春文庫, 2001/3)
266ページ(第1刷) 第14章 六法よりも奇なり 不渡り より

 私にとって、二十代で経験した三度の失業など、十代で耐えねばならなかった弟の死や、その事件を巡って裁判を両親が起こしたという身近な出来事もあってか、法曹界をめざすようになった兄が二十歳で精神分裂病を発症しまだ治癒せぬこと、などに比べれば全然どうということはなかった。

なお、日垣氏は2011年に『情報への作法』として『情報系 これがニュースだ』を改題し再文庫化している。これらの間では改訂されている部分はなかった。

これらの記述を比較してみると、弟は事故で亡くなったとしていたのだが、それについて事故ではなく事件であると記述を変えたことがわかる。

改訂B:「学校事故で失い」→「殺され」

「エコノミスト」誌に連載されていた「敢闘言」を『敢闘言―さらば偽善者たち』として単行本化する際、次のように改訂されている。

  1. 「弟を学校事故で失い」→「弟を殺され」
  2. 「弟を殺したに等しい教師たち」→「弟を殺した者たち」

以下に比較のため前後の記述も含めて並べる。

エコノミスト(毎日新聞社) 1995年1月10日号
11ページ「敢闘言」より

 私は中学三年生のとき二つ下の弟を学校事故で失い、以来、正直に告白すれば、弟を殺したに等しい教師たちに殺意を抱いてきた。彼らを許す気になるまで一〇年以上がかかった。

敢闘言―さらば偽善者たち(太田出版, 1999/5)
143ページ(初版)1995.1.10 命を奪われない限りにおいて より

 私は中学三年生のとき二つ下の弟を殺され、以来、正直に告白すれば、弟を殺した者たちに殺意を抱いてきた。彼らを許す気になるまで一〇年以上かかった。

これらの記述を比較してみると、前者では弟はやはり事故で亡くなったとされている。またその責任が教師たちにあることを示唆している。しかし後者では事故ではなく殺されたと記述を変更し、あわせてその責任が教師たちにあるとしていたのをぼかすように改訂されている。

「事故」から「事件」へ

ここまでの改訂内容でわかるように、日垣氏は当初、弟は事故で亡くなったとしていた。そして後にそれを「事件」であり「殺された」つまり弟の死は殺人事件であったと自らの主張を変更している。

改訂C:「事故」→「致死事件」

1992年に出版された『日本人が変わった――ふくらんだ泡が弾けて』に収録された記事を1998年に『子供が大事!』に再録する際、次のように改訂されている。

  1. 「教師たちの重大な過失による学校事故で、命を奪われたのである。」→「教師たちに、命を奪われたのである。」
  2. 「事故」→「致死事件」
  3. 「死亡事故の原因が、すべて弟の不注意に帰せられていた」→「死亡の原因が捏造され、なんと弟の不注意に帰せられていた」
  4. 「不注意な生徒というイメージをもたせるために、報告書のうえで成績を落とすことが彼らには必要だったのだろう。」という記述の追加
  5. 「僕は父に、そのことを告げた。」→「その場で僕は父と教育長に、そのことを告げた。」

以下に比較のため前後の記述も含めて並べる。

日本人が変わった――ふくらんだ泡が弾けて(毎日新聞, 1992/8)
203~205ページ(刷数不明。1992/8/20発行) 分裂病の兄よ、逝ってしまった弟よ より

 悪夢である。が、実際に起こったことだ。その日から、弟は二度と帰らぬ人となった。教師たちの重大な過失による学校事故で、命を奪われたのである。
(略)
 それまで、教師たちから、事故に関する謝罪を受け、彼らがいかに理不尽な行為のもとに弟を死に追いやったかを僕は直接、耳にしていた。小さな中学校だったから、弟と僕の教え手はほとんど重複していたのである。だが、教育委員会に提出された報告書に書かれてあった内容は、それまでの見聞とは一八○度も違っていた。死亡事故の原因が、すべて弟の不注意に帰せられていたばかりか、中学になって弟が初めてもらった最初で最後の通知表までもが見事に改竄されていたのだった。僕は父に、そのことを告げた。のちに裁判となり、全面勝訴となったのだが、裁判に勝っても弟の命はむろん、帰ってなどこなかった。

子供が大事!(信濃毎日新聞社 , 1998/11)
14~18ページ(初版)第1話 兄よ、弟よ より

 悪夢である。その日から、弟は二度と帰らぬ人となった。教師たちに、命を奪われたのである。
(略)
 それまで、教師たちから、致死事件に関する謝罪を受け、彼らがいかに理不尽な行為のもとに弟を死に追いやったかを僕は直接耳にしていた。だが、教育委員会に提出された報告書に明記されていた内容は、それまでの見聞とは一八○度も違っていたのである。死亡の原因が捏造され、なんと弟の不注意に帰せられていたばかりか、中学になって弟が初めてもらった最初で最後の通知票までもが見事に改竄されていたのだった。不注意な生徒というイメージをもたせるために、報告書のうえで成績を落とすことが彼らには必要だったのだろう。
 その場で僕は父と教育長に、そのことを告げた。のちに裁判となり、全面勝訴となったのだが、裁判に勝っても弟の命はむろん、帰ってなどこなかった。

これらの記述を比較することで、以前は「弟の死は事故によるものであるが、教師たちに過失があった」としていたものを、のちに「これは事件であり、加害者が教師たちであり、そして教師たちは事件を隠蔽しようとした」かのような記述に改訂されたことがわかる。

問題点

冒頭に『日垣氏は「弟は同級生に殺され、少年法により加害行為は”なかったこと”にされた」と主張している。』と書いた。しかしここまでの改訂で同級生は出て来ない。実は日垣氏による弟の死についての記述は次のように時期によって異なるのである。

1990年~1996年 事故で亡くなった
1997年~1998年 (教師たちに)殺された
1999年~ 同級生(少年)に殺された

この「時期による主張の変遷」はおおまかなものであり、多少のブレがあったりもする。時期によって弟がどのように亡くなったのかという説明が一貫していない上に、発言する場によっても変わってくるのだ。それらは『日垣隆氏による兄弟(弟)についての記述・発言一覧』としてまとめておいた。

このように主張が一貫していないことにより「日垣氏の弟は本当はどのようにして亡くなったのだろうか」という疑問が呈されるようになった。事故なのだろうか、教師に殺されたのだろうか、同級生に殺されたのだろうか、それともそれ以外なのか。また、同級生に殺されたのでなければ、少年法について「弟が少年に殺された」という経験を元に語っていたことは問題ではないのか、そして事故であるならば「犯罪被害者」という立場から語っていた言葉は何だったのか、という問題もある。

このテーマではこれらの疑問についての調査研究結果を記録していく。

(『「日垣隆氏による弟についての記述」への疑問』に続く)